あの頃に帰りたいなあ…と度々思うときがある。いや、毎日かもしれない。というわけで小学生の思い出を振り返ってみる。個人の思い出ですが暇つぶし程度にお付き合いくださいませ。
構成
学年ごとに区分け、その年に主に何に熱中していたかとか、クリスマスプレゼントとお誕生日は何をもらったかというのをまとめています。印象に残った思い出も書いてみたり。ほんとうにとりとめのない話です。ちなみに私は早生まれなので、クリスマスプレゼントの後に誕生日プレゼントが来る順序関係だ。どうでもいいね。
ちなみに事前にとったアンケートはこんな感じでした。
幼稚園年中(1994年)
おい、小学生って言ったろ!タイトルだって1996-2001って書いてるじゃねえか!のっけから外れているが覚えてる限りのことを書く。一番悲しかったクリスマスなので。
マドレーヌ事件
この年にもらったクリスマスプレゼントは、マドレーヌだ。そう、お菓子のマドレーヌ。マドレーヌを模したオモチャではなく、食べたら無くなるマドレーヌだ。ロボだとかおもちゃがもらえると思っていた「ぼく」は大号泣した。前年にはDXアールジーコ(ジャンパーソン)を買ってもらえたのにこの落差はなんだと。どうなっているんだと。30年経っても未だに情景すら思い出せるので、相当に堪えた出来事だった。
後から裏事情を推察すると、親はこの年にマイホームを買っていた。賃貸から引っ越しをしたのもこの年だ。頭金を払いよほど切り詰めていたのであろう。親だっていっぱいいっぱいなんだ。にしても、4さいには堪えるよこれは…。
この年に放映されていたのはカクレンジャー。隠大将軍は持っていたがいつ買ってもらったかは覚えていない。誕生日プレゼントとして、こっちの費用はなんとか捻出してもらったのかもしれない。
何故か、同年のブルースワットはまったく見た覚えがない。前年のジャンパーソンは見たことがあるのに。
幼稚園年長(1995年)
特撮はオーレンジャー、ビーファイターの年。
お年玉、残り1円
印象的な思い出がある。おばあちゃんからもらったお年玉(10,000円)でキングピラミッダーを買った。確か9,999円で1円だけ残った記憶があるので間違いない。この時期のおもちゃ屋はよくそういう値付けをしていたのだ。この年に他に買ってもらったのはオーレンジャーロボ、レッドパンチャー、オーブロッカー。それぞれのタイミングは忘れた。オーレンジャーロボは4月あたりだった気がする。DXロボを一番買ってもらったのもこの年だったと思う。
小学校1年生(1996年)
まだまだ興味の中心に特撮があった時期。この年に放送されていたのはカーレンジャーとビーファイターカブトだ。前年ではDXロボをたくさん買ってもらったはずだが、カーレンジャーは何一つ買ってもらえなかった。まあ親にとっては年一でループするシリーズに見えるしね。唯一、ロボの代わりに変身アイテムのアクセルチェンジャーだけ何故か母親の誕生日に買い与えてもらった。
「青いから」で選んだミニ四駆
人生の初ミニ四駆はスピンアックスだ。購入理由は青色が好きで、青いミニ四駆にした。その程度だった。コロコロコミックを読む前だったから所有者が誰だとか、世間の人気マシンはどれとか全く知らないまま選んだと思う。
コースは無い。側溝か道路で走らせる。アスファルト、タイヤを切りつける。それを後ろから追いかける。漫画だってそんな感じだったし。
この年にコロコロコミックを初めて買ってもらうことになる。それまで雑誌を継続購入してもらうことはなく、その時目についたのが11/15発売の12月号だった。このころはまだ500円以下だったはずだが、買って買って→買わないよの攻防を繰り返した結果、先取りのクリスマスプレゼントとして買ってもらうことになったはずだ。
「ぼく」には姉がいるので、姉の方は普通にクリスマス当日にそれなりの(我が家の予算はひとりにつきおおよそ1万円以内というのが暗黙の了解だった)プレゼントが与えられたのだが、先取りにしたとはいえそのタイミングで「ぼく」に何も渡さないのは流石に親もまずいと思ったのか、当日はトップサンのポケモンカードガムを数袋包んだプレゼントをもらった。「ぼく」も先取りって約束だったしなあと6歳にしてはまあまあ自制の効いた感情を持っていたと思う。マドレーヌ事件を乗りこえてきたからかもしれない。あれは事前の予兆も何もなかったので特に悲しかったのもあるが。
「クリスマスプレゼント」という体で買ってもらったコロコロコミックはあくまで単発であり、購読が始まる予定ではなかったが、97年3月号から継続して買ってもらうようになった。どういうねだり方をして親にそれを取り付けたかは覚えていない。そこからコロコロの購読は2003年9月号まで続くことになる。
はじめての ビーダマン
初のビーダマンもこの年度に手に入れている。
食玩だと炎の魔神も水の魔神も揃えてたのだが、いつだったか捨ててしまい、今では大後悔している。大人になって炎は買い戻したが水はまだ揃わない。
小学校2年生(1997年)
赤を買うか緑を買うか、ちょっと違うよ
ポケモン初プレイの年。初代世代です。
コロコロタイアップは発売年の96年からやってたけど、下記のコロコロ表紙を揃えた公式特設サイトの97年以降のコロコロ表紙を見てもらえればわかる通り、もう、本当にすごかったんだから。
corocoro-news.jp
Lv100の裏技も、インターネットもぜんぜん浸透していない時代に、小学校の友達から教わる。その友達は近所の兄ちゃんに聞いたという。片田舎にすら伝播してくるほどの超巨大コンテンツだったのだ。
ポケモンの社会現象に「ぼく」も熱狂し、赤を買ってもらった。ただし、ゲームボーイは買い与えられなかった。「目が悪くなる」からだ。ということで親が一緒に買ったのは、スーパーゲームボーイだった。「ぼく」はポケモンを遊ぶとき、スーパーファミコンでしかできなかったのだ。そんな親心もむなしく、中学二年生には視力低下によりメガネをかけ始めるようになる。
初めてのポケモンはなんだかんだ殿堂入りまではクリアできたが、RPGの遊び方すらあまり理解できていなかったので、最初にもらったゼニガメが最終進化したカメックスでひたすら殴り倒すという戦法で猛進していた。技構成だってフルアタである。なみのり・かいりき・れいとうビーム・ふぶきだったかな?ライバル戦にはPPも無くなり、わるあがきでちまちま削っていた。よくクリアできたな「ぼく」は。
名前も知らなかったラジコンカー
クリスマスプレゼントは、六輪のラジコンカーだった。今思えばラジコンが欲しいと思った動機は「タミヤRCカーグランプリ」という番組の影響だった気がする。実家はテレビ東京が映らない地域なのだが、タミヤRCカーグランプリはネット局制度により代わりにローカル放送局が放送していた。その番組が目に入るようになったのは、スーパー戦隊シリーズの放映時間の前に放送してたから。前年カーレンジャーまでは金曜の夕方に放映していたが、この年のメガレンジャーは数話で日曜朝に移動したのだ。「ニチアサ」という枠組みはここから始まっている。というように、自分がラジコンカーを欲しがった経緯も詰めていくと、それに至る流れがあることがわかる。
六輪のラジコンカーは番組で取り扱っていたようなレース向けではなく、アクション重視だった。ラジコン、ラジコンと言っているが実は当時正式名称を知らなかった。正式名称を知ったのは、実は2025年になってからだ。
それは株式会社朝日コーポレーションの「アクロゼクス」という。手元に現物が無いので写真は貼れないが、どういうフォルムかは画像検索で出てくるので興味があれば調べてみてね。
朝日コーポレーション?知らない会社ですね…?となるのも無理はない。なんせここから数年後、2000年に倒産していたのだ。
www.tdb.co.jp
つい最近まで記憶の彼方にあったのだが、国立国会図書館の90年代の玩具情報誌(子供向けのではなく、問屋や業界人向けの月刊誌)を閲覧していたとき、偶然このラジコンの紹介ページを見つけて記憶が一気に蘇った。そっかあ…あのラジコンそういう名前だったのかあ…。Xでワード検索しても全然出てこねえや。
当時、巷で人気の
クリスマスでも誕生日でもないある朝、布団から這い出てもまだ頭がぼんやりとしたままの状態でお茶の間に出てきたところ、ちゃぶ台にサイクロンマグナムのキットが置いてあった。一瞬で眠気が吹き飛んだ。狙い通りに衝撃を受けた「ぼく」を見て、得意げな顔をした父がいた。
サイクロンマグナムがほしい、とねだったわけではないのに、心の中で欲しいと思っていたキットが置いてある。あれがほしい、これがほしいと親を困らせてきた「ぼく」に、欲しい物が向こうからやってきたという稀有な出来事だったと思う。
なお、サイクロンマグナムの発売は96年だが、思い返す限り自分が手に入れたのは97年だった気がする。なのでここに書く。
ビーダマン'97
爆外伝だとIIIが展開されていた年。ガイアボンバーファイターとフィルマボンバーファイター、ソイルボンバーファイターは買ってもらった。あの頃の玩具は安くてよかったよ…。今の物価だったら自分の家庭じゃ買ってもらえなかったな。
大物を買える誕生日プレゼントは、シャインボンバーフォートレスだったと思う。
スーパービーダマンについては、あまり所有していなかった。つい最近まで「買ってもらえなかった」というのが自己認識だったが、実際は欲しいとは思っていながらも、色んなものの優先度に負けてしまっていたのが実情だったようだ。Tくんという友達の家で遊ばせてもらった思い出が多い。Fフェニックス、Wワイバーン、SスフィンクスのOSシリーズをこの時期に触れていた。
女の子のともだち
絶望的に女運が無い(私の場合、悪い女に捕まる・騙されるという意味ではなく、そもそも異性として興味を持たれないどころか、活動しようとする度に転勤や疫病・戦争など環境自体が阻害しにかかる謎の怪奇現象のこと)人生を歩む中、小学校低学年の時期だけ、ななみちゃんという女の子の友達がいた。
いや、言うても知り合い程度でしょ、とか、まあたまたま接点があっただけだしな、だとか、モブその3程度にしか思われてないだろ、こちらが先輩・年上という立場を敬っただけの社交辞令だよな、などと異性の関係性については後ろ向きな自己評価が多い(というか、振り返り時点で答え合わせになり、ますます根拠が強化される)中、あの子は間違いなく「ぼく」の友達だったと断言できるような女の子だった。
最初にどういう流れで友達になったかは覚えていないが、この子と遊ぶときは3人以上のグループではなく、2人きりで遊んだ思い出の方が多い。ご近所さんとは言えない距離だったが、自分の通学路の途中にななみちゃんの家があった。たびたび放課後に遊ぶ約束をし、家にあがらせてもらい、一緒に遊んだのをよく覚えている。そして、ななみちゃんもスーパーゲームボーイでしかポケモンを遊べないという、くだらなくも子供にとっては迫真の親近感を覚える共通点があった。
もしかしたら人生史上で唯一の女友達かもしれない。今つながりのある人・過去につながりのあった人を無下にしてるわけじゃないんだけど、1対1でも会ってくれたような関係性の子ってこの子ぐらいなんだよな(ここでは語らないが、1つの例外を除く。大した話ではない)。自分が男友達の基準を定義するとしたら「サシで半日単位で拘束するような用事の誘いが出来るぐらいに、気を使わずに済む人」なので、女友達もそれと同じ基準を適用した場合、一人もいなくなるよね、という感じ。まあ、その基準だと男友達もガクッと少なくなるんだけど。
印象的な思い出としては、アクシデントでセーブが消えたポケモンをはじめからやり直した際、唐突に「ライバルのなまえ、わたしにしてよ」と提案してきたことだ。赤緑の時代といえばライバルは…えーと? なまえは なんて いったかな?
そのときの「ぼく」は、数秒考えて、断った。だって、ライバルの外見はおとこのこだから。すればよかったのに。「ぼく」はほんとうにばかだな。
ななみちゃんとは喧嘩をした記憶もなく、ただただ楽しかったというピュアな感覚だけが残っている。もしかしたら喧嘩もしてたのかもしれないが、不思議なことにそういったネガティブ方面の記憶はこの子だけは全く覚えがない。初恋とはまた別なので、本当に自分の中で特別枠の立ち位置だ。「ぼく」自身もまだまだ純粋無垢な子供の時期だったからそういう関係が築けたのかもしれない。しかし小学校中学年の頃のクラス替えを機に、疎遠になってしまった。中学校も同じだったはずだが、もはやその頃には何も関わりが無かった。会話した記憶がない。
今では俺のことなんかとっくの昔に忘れてんだろうな、と思いつつも楽しく過ごしていてくれればとねがう。
小学校3年生(1998年)
ビーダマン'98
爆外伝アニメが放送された年。買い与えられた玩具もビーダマン(爆外伝)比率が最も多かったのもこの年だ。主要ビーダアーマーのほとんどを買ってもらうことが出来た。セイントドラゴンもダークネスドラゴンも揃った。
通常色に加え、クリスマスではトイザらス限定クリアセイントドラゴン、トイザらス限定クリアダークネスドラゴンまで買ってもらうことが出来た。大満足の年である。充実しすぎて翌年はひどく落ち込むことになった。
を初めて見に行ったのがこの年だ。「ドラえもん のび太の南海大冒険」。映画では第19作目に当たるらしい。当時の出来事ではなく大人になってからの話だが、匿名掲示板で藤本弘先生没後の最初の作品だったのを理由に悪い評価を下されていたのが忘れられない。便所の落書きとはいえ論評の要素がかけらもない、品性に欠けた書き込みだった。思い出に難癖をつけられたかのような思いをした。まあ確かに自分の中でもドラえもん映画シリーズで好きな作品は別のものになるのだが。
返してきなさい
苦い思い出がある。Sくんという男の子の友達がいたのだが、この子の家はミニ四駆が大変充実していた。段ボールやコロコロコミック製ではない、本物のコースがあった。すごいすごいと目を輝かせている「ぼく」に、気を良くしたのかミニ四駆をあげるよと2台ほど譲ってくれることになった。誓って言うがくれとお願いしたわけではない。あげると言われたからもらおうとなっただけだ。
上機嫌で家に帰ってきた自分の息子が、買い与えた記憶のないミニ四駆に夢中になっているのを発見した親は、「ぼく」を問いただした。「ぼく」はありのまま、くれるからもらったと話した。紛れもない事実だった。親は少し考えた末、「もらうのは良くないから返しなさい」と言い、結局親同伴でSくんの家に返しに行くことになった。道中はひどく悲しかった。
Sくんの親と親同士で会話したが、あらまあご丁寧にと揉めることなく、ミニ四駆は返却された。もう一度言うが、Sくんが自発的にあげると言ったからもらったのだ。譲渡プロセスの起こりから終わりまで、「ぼく」のゆすりや無茶振りやワガママは何一つなかった。とはいえ、今では親の懸念もまあまあわかる。
球を蹴ると、弾を撃つキャラのカードがもらえる
「ぼく」は全くもってサッカーに興味が無かったのに、数か月だけ地元の小学生サッカークラブに入ったことがあった。母が必死にやってみなよ、楽しいと思うよ、絶対面白いって、と洗脳に近い勧誘をひたすら続けたからである。
8才の自分の息子がインドア派の傾向を見せはじめていたことは、母にとって死活問題だったようだ。なんとかして健康的なスポーツ男子に軌道修正したいという親心・もといエゴにより、「ぼく」の改造計画は推し進められていた。
あまりにも興味が無くてサッカー選手をカッコいいとも思わないし、サッカーがうまくなりたいと思わない。だから小学校のサッカーでも上手く立ち回れないし、それについて悔しいとか勝ちたいとかの反骨心も湧かない。興味の無さが結果の無さを生み、結果の無さが興味の無さを強化する負のスパイラル。それが「ぼく」にとってのサッカーだった。*1
何度も何度も説得を繰り返されるたびにイヤだ、興味ない、楽しくないと頑なに突っぱねていたが、とうとう「ぼく」の意思は完全に無視され、クラブに入部が決まってしまった。わかりやすくムスくれた「ぼく」に流石に思うところがあったのか、母はクラブに行くたびに、ビーダマンのカードを買ってあげると提案した。ビーダマンのカードというのはスーパーに並ぶ「Bビーダマンカードガム」のことだ。数十円程度で、1つにつき2枚入っており、弾ごとに全部で約50種類ある。「ぼく」はそれにのった。提示されたエサにつられて前向きに受け取ったわけではない。いかにこの不本意なアクティビティの代償を支払ってもらうかという点で、それを招いた張本人が明確な報酬を示したことに対して一応の納得をしたのである。
そんなわけで定期的なクラブ活動参加が始まった。やってみると、意外とこれが楽しいかも…と思うことは全くなかった。
クラブにいるのはサッカーをやりたくてやっている健やかな少年であり、「ぼく」よりずっと小さなころからサッカーに親しんでいる陽気な少年であり、これまでの練習量も情熱も全く異なる彼らに技量で拮抗できるわけがなかったからだ。思想矯正のために入れられている「ぼく」とは違う。快活に動き回る背番号の中に、一人だけ冷え切った雰囲気をまとった囚人番号が混じっている。試合形式ではないヘディングやドリブルの練習でもあからさまに差が出ていた。出ていたというか、差がある状態からの始まりだ。それが余計にやる気を失わせる。あまりの熱意のなさに、言葉にはされなかったが「こいつは何しに来ているんだ」と言いたげな雰囲気ははっきり伝わった。自分だって何しに来ているのかわからん。はやく帰りたい。
その日のメニューが終わり、迎えに来た母に、帰りがけに日当を請求した。ビーダマンのカードだ。母自らが誓約したものだ。母は約束を守った。ただ単に買い物についていったときにねだっても買ってもらえるかわからないカードが、2時間の労役で確実に手に入るとは。溜飲が下がった。
それからクラブに通うたびに、絶対にビーダマンのカードを請求することを忘れなかった。約束した。買ってくれるというからクラブに通うのである。行動事由なんてそれだけだ。サッカー楽しくなってきた?ぜんぜん。そもそもあの子たち友達でもなんでもないよ。クラブで顔をつき合わせるだけの子たち。はい、今乗った電車の人たちとは友達になりました、仲良くしましょうねなんて思わないでしょ?ヘディングもあたま痛いし、ボール追いかけてヘトヘトになることに楽しみを見出すって何?ここまでの言語化は当時はしていなかったが、「ぼく」が醸し出す態度でなんとなく理解していたようだ。一向にカード目当てからサッカーそのものに興味が移らない息子の様子は、母にとって誤算だった。
何度目かの帰宅の道中にて、サッカーしたんだからビーダマンのカード買いに寄らないの?といつものように言った「ぼく」に、母はとうとう心が折れたのか、もうサッカーはやめよっかと改造計画の中止を通告した。その日はビーダマンのカードは買ってもらえなかった。突然の未払いに「ぼく」はなんで!?なんで!?と半泣きで抗議した。母のやりたかったことはスポーツへの興味関心の誘導、「ぼく」が受け取ったのはただの労役の契約、そこに最初から最後までズレがあった。
余談:再トライの母、Noトライの母
この数年後、母は空手道場に「僕」を通わせようと画策し、見学まで無理やり連れていくのだが、同様にあまりにも興味のない反応に今度は入部以前に諦めることになる。
と、いうかここまで伏せてたけど、この時期含めた数年間、スイミングスクールに通ってて、そっちは続けてたんだから別に良くない!?今でもクロールやら背泳ぎやら平泳ぎまで全然出来るぜ!?
時は過ぎ現代。還暦を迎えた母は最近ヒマでね~と話を振ってきた際、私は完全に善意で、何か習い事でも始めたら?と提案したところ、「そこまではしたくない」と返ってきた。おい。
小学校4年生(1999年)
はじめての自分のスーパービーダマンと、Vは?
この年にはじめて自分のスーパービーダマンを手に入れている。ハンティングリンクスだ。OS世代のスーパービーダマンも触ったことがあったが、友人の持ち物を貸してもらう程度だった。
最初からハンティングリンクス目当てだったわけではない。スーパービーダマンが欲しいために親を説得して到着した玩具店にあったうちの一つが、ハンティングリンクスだった。売り切れている人気商品が見つかるまで何度も玩具店をハシゴしてくれるほどの協力は、親から得られそうもない。ハンティングリンクスを買ってもらうことにした。
爆外伝は、アニメが2期の爆外伝Vに変わった時期だ。前年度はほとんどのビーダアーマーを集めることが出来たが、この年のVビーダアーマーはなんと一つも買ってもらうことが無かった。特撮にあるあるな「去年同じのを買ったでしょ」が爆外伝で発動したのだ。
アニメだけは第1話から最終話までリアルタイムで完走したが、食玩も含め爆外伝V関連商品は全く買ってもらえなかった。
そしてその理由は、もう一つある。
今、関心が進化する
この年、自分にとって重要な出来事がある。アニメ「デジモンアドベンチャー」が放送された年だ。このアニメをきっかけに、今日に至るまでデジモンコンテンツを追いかけることになる。ファーストコンタクトは第12話「冒険!パタモンと僕」だ。偶然点けたテレビにくぎ付けになっていた。話数まで正確に答えられるのは、見た内容を覚えていて、そこからタイトルを逆引きできるからだ。タブンコンナモンとキットコンナモンが出ていた。
自分の興味の優先度は、あっという間にデジモンが首位に入れ替わった。他のホビーも変わらず好きだったが、デジモンはもっと好きだった。必然的に、ねだって買ってもらう玩具もデジモンの比率が大多数を占めるようになる。
デジヴァイス、デジヴァイス2、デジモンカードなどデジモン関連商品を買い与えてもらうことになった。この年のクリスマスプレゼントはデジモンアナライザーだった。ノートPC型の玩具のデジモンアナライザーの箱はとても大きく、開けるまでは期待が大きかったが、開封したところノートPCが閉じられた状態ではなく、180°開かれた状態で梱包されており、実質外箱の1/2以下の大きさであったことにすこしだけガッカリした。*2
それでも1週間足らずでエンディングロールを見たぐらいにやり込んだ。
小学生の頃の自分は、なかなかお人好しな部分があった。優しいというよりは浅慮であったというのが正確であり、軽率であったとも言える。
Hくんという友達がいた。仲良くしてから数か月ぐらい経ったある日、デジモンの話題になり、デジヴァイスを遊んでみたいという彼の淡い願望を聞いた。そこで「僕」は自分のデジヴァイスを貸すという提案をし、実際に貸した。このころ、友人間でテレビゲームの貸し借りをするという習慣があったし、それは円満に機能していて特に問題はないと思っていた。自分はもうデジヴァイスを遊びつくしており、隠しキャラのブイドラモンまでしっかり確保していた。セーブが別に消えてもよいとも思っていた。やり直せばいいだけだし。
そこからさらに月日があったある日、そろそろ返してもらおうとデジヴァイスの話を持ちかけたところ、Hくんは焦りのある表情を浮かべた。ちょっと待ってほしいという返事があり、その通りに短期間だけ待った後に再度同じことを問いかけた。Hくんは観念して顛末を話した。失くした、と言う。
借りたものを失くしただけでなく、失くしたという報告だけで終わらせようとしたHくんに「僕」は激怒した。いいやダメだ、あれは貸しただけだ、しっかり探して返してくれ。そもそもどこまで探したのか?人のものなのだから真剣に探すべきだ。まさかそんなに軽い扱いをされるとは思っておらず、Hくんに迫った。
Hくんは困り果てた末、代案を提示してきた。マリオコレクションをあげるから、それを弁済として勘弁してほしいと。確かにソフトとしてのマリオコレクションは自分にとって欲しいソフトではあったが、とはいえこんな形で渡されるのも納得がいかない。しかし、これ以上詰めてもデジヴァイスが返ってこないという諦めと、一応の謝意とその代償品の提示で手打ちにすることにした。
今思えばあれは大失敗だったなと思っている。現代で再度買い戻すのが難しいのはどっちなのか、その答えを知っているからである。
Oh~~!バッナ~~ナ!!
この年の誕生日プレゼントは、ドンキーコング64だった。メモリー拡張パック付きだ。64本体の「はがさないでください」と警告文のついたシールをはがし、ターミネータパックを差し替える行為は、奇妙な背徳感を覚えた。
当時はかなりの時間をプレイに費やしたのだが、ギリギリクリアできたかどうかぐらいだったはず(記憶が曖昧)だ。大学生の時にリベンジしたのだが、198/201本までゴールデンバナナを集めたが後3本が叶わなかった。難しいんだよこのゲーム。
作品の終わりに立ち合う
この時期も購読が続いていたコロコロコミック。いつものように発売日に読みふけっていると、爆走兄弟レッツ&ゴー!!MAXの最終回に直面した。これには童心にかなりの衝撃を受けた。購読期間に連載漫画の最終回を見たことなんていくらでもあったはずだが、ミニ四駆という巨大コンテンツは物心ついたころから視界に入っており、半ば当たり前のように捉えていたからだ。いつまでも続くという漠然とした思い込みがあった。こんだけ強い作品でも"終わる"んだ!?とビビったことを覚えている。無論、ミニ四駆というコンテンツ自体が終わったわけではなかったが、それでも漫画が終わるということは、相当なショックだった。
小学校5年生(2000年)
╲キュイーン/
この年のクリスマスプレゼントはワンダースワンカラーだ。ソフトは「デジモンアドベンチャー02 ディーワンテイマーズ」。これまでは視力低下を懸念して携帯機を買い与えることを控えてきた親だったが、数年経ち考えに変化が出てきたこと、ワンダースワンには据え置きプレイの手段が無かったことでついに携帯機所持にOKが出た。そんなわけで、「僕」の携帯機ゲームデビューはワンダースワンになった。電池一本で駆動するのも良かった。ワンダースワンの通信ケーブルも入手し、D-3やディーターミナルとの連動要素も一通り体験できたのも良い思い出となっている。
密航
悪知恵がついてきたころの話。親がスーパーに行く用事についていく理由はただ一つ。お菓子や食玩を買ってもらうためだ。うちにはお小遣い制度はなく、欲しいものは申告して親に買ってもらうシステムだった。とはいえ、通らないことも多い。買い物1回につき数十円の買い物は許可されるのだが、200円300円の価格帯の食玩はほとんどが通らなかった。欲しいが承認が通らないものを通す手法は無いものか———ある時「僕」は一計を案じた。お伺いを立てずに親の買い物かごにしれっと放り込んだのだ。親が気づかないまま、レジで精算され、欲しい食玩を手に入れることが出来た。後で気づいた親も呆れるだけでそこまで怒ることはなかったが、何度か繰り返したところで正式にNGが出た。そりゃそうだ。でも、お小遣いを貯めて買うなんて選択肢も無かったし。
終生の友、Kくん
皆さんには長い付き合いの友達はいるだろうか。私にはいる。小学校高学年の頃にクラスメイトとなったKくんという人物だ。正確に言うと友達として遊ぶようになったのがその頃であって、所属だけであれば同じ幼稚園に通っていたらしい。たまたま交流が始まったのが小学校高学年だった。この頃から君付けで呼んでいるので、いい年になった今でも君付けで呼ぶことが多い。非常に趣味も合い、感性もかなり近かった。好きな漫画もゲームもおもちゃもほとんどが被っている。
彼と「僕」で大きく異なる点は、Kくんは非常にモテたということである。モテと言っても黄色い歓声があがるような外見の良いタイプではなく、女の子とフレンドシップを築きやすい、柔和な雰囲気を持っているような感じだ(中学生の時から彼女もいたので恋愛的なモテも兼ね備えていたが)。彼とは中学校・高校も同じだったが、私が県外の大学に進学したのを機に、直接会って遊ぶということは少なくなった。ちょうどSNSの黎明期と重なり、ネットを通じたやり取りは頻繁にしていたためそんなに疎遠になった気がしなかった。Kくんは25歳という若さで大学時代の彼女と結婚し、今では2児の父をやっている。
「俺はお前のせいでオタクになったんだからな」とたびたび言われるが、完全に知らんぷりしている。中学生以降にハルヒや瀬戸の花嫁を紹介したのは「僕」だが、らき☆すた以降は勝手に自分でハマってたじゃないか。
小学校6年生(2001年)
「なんで俺だけ!」
Oくんという友達の家で遊んだ時のこと。そのときは集まった友達数人でスーパーボンバーマン5でひたすら対戦していた。Oくんのお姉さん(中学生ぐらい?)も混じってかなりの数の対戦を重ねていたが、流石所有者ということでOくんの勝率が相当に高かった。Oくんは気分上々だったが、それ以外のメンバーはだいぶ白けており、「僕」も内心イラつき始めていた頃だった(今でこそ勝敗はだいぶテキトーに流せる余裕はあるが、当時は小学生。本気で勝ちにいきたいのである)。次第に他プレイヤーはこぞってOくんから抹殺しようと徒党を組み始める。
それでも強いOくんはその後も何戦か勝ち続けるものの、ついに葬れそうな好機が訪れる。そこだ、やれ、おしい、と口に出し始める友達。Oくんのお姉さんですらがんばれ、やっちゃえと後押しする始末。爆風に当たるOくん。ようやく、Oくんに黒星がついた。
「なんで俺だけ!」
リザルト画面が出たと同時に号泣してコントローラを床に投げつけるOくん。いや、ずーーーーっと勝ち続けてるのを見てるみんなも結構ストレスだったよ…?と思いつつも、まあ確かに全員に負けを望まれるのもそりゃ嫌だよな、という話になり一転して慰めモードに入った。でもさー…
「好きか?」と問われると確実に好きだと答えるが、当時全然所有していなかったのがZOIDSだ。デジモンと同時期にアニメが放送されていたため、かかさず毎週視聴し、VHSにも録画していた。ブレ―ドライガーやライガーゼロなどのアニメ主役機などは手に入れられなかったが、シャドーフォックスだけ友達から譲ってもらったことがある。ミニ四駆のときとは違い、こちらは何故か親に咎められることは無かった。中学生以降はブロックスを数点摘まむことはできたが、大型ゾイドは縁が無かった。大人になってからHMMをいくつか買っているが、今度は組む時間の無さに悩んでいる。
実はベイブレードの思い出は、過去に一度まとめている。別記事を紹介する。
mosaku-rx.hatenablog.com
登山とマグネスタジアム
上記のベイブレードの思い出記事に載っていない話をする。父にマグネスタジアムを買ってもらった時の話だ。このマグネスタジアムが当時自己所有していた唯一のスタジアムだった。それまでたちゃんとしたベイバトルをするには、友人の家のスタジアムを使うしかなかった。
欲しいとねだった際に父が条件を出したが、それは実にシンプルなものだった。父の好きな登山に10回同行するというものである。登山と言っても標高1000m程度の、日帰りで行ける程度の山だ。言ってみれば斜面の多いピクニックである。その場で同意した。上記に挙げたサッカーよりも相当に条件が良いと思えた。そして、10回の達成後ではなく、最初の登山の後に買ってもらえた。今にして思えば父は「僕」のモチベーションコントロールは割と上手い方だったと思う。
別に約束を違える気はなかったが、父自身も忙しいためなかなか機会を作るのも難しく、累計4回かそこらあたりで自然消滅してしまった。登山を嫌がったわけでもないが前向きでもなかったため、ノルマとして付き合わせるのは父としても気が乗らなかったのだと思う。
現代でもまだ実家にマグネスタジアムは残っているが、室内とはいえ窓から入る紫外線によって大分劣化し、相当なひび割れが起きている。押し入れにしまっておけばキレイに維持できたかもしれない…。
おもちゃではなくなったクリスマスプレゼント
第二次性徴が始まり、ひげが生えてくるようになった「僕」は、ついにクリスマスプレゼントにおもちゃ以外のものをお願いした。ひげ剃りだった。今思えば父のを借りるとか、プレゼントではなく生活必需品として要求するなりしても良かったと思うのだが、たぶんそれは背伸びだったのだと思う。とりあえず、ここが大きな転換点になったのではないか考えている。
終わりに
そんなわけでここで終わりである。なんか急にぶつ切りになったような終わり方だが、これらは思い出であり、物語ではないので、そんなもんである。「転換点」とは言いつつも、この後もPS2やDSを買ってもらうような機会はあった。しかし大人を意識し始めたという点では転換点と言って差し支えないと思う。